モータースポーツ
プジョーは古くから積極的にモータースポーツ活動に取り組んできた。1910年代にアメリカのインディ500に自前の車体で参戦し、数度の優勝を遂げた。
1980年代から1990年代初頭にかけて、プジョーはモータースポーツ部門であるプジョー・タルボ・スポール(現在はプジョー・スポール)を立ち上げ活躍していた。元・WRCのコ・ドライバーで、後にフェラーリF1チーム監督として辣腕を振るうジャン・トッドを監督に擁し、世界ラリー選手権 (WRC)、パリ・ダカール・ラリー、パイクスピーク、ル・マン24時間レースなどのスポーツカー世界選手権 (SWC) などで活躍した。
ジャン・トッドがフェラーリに移籍後、F1にも挑戦(のちに撤退)。
1990年代後半からWRCに復帰し、チャンピオンシップを獲得するなど活躍した(ワークスは2005年に撤退)。
2007年より、ル・マン24時間レースにてディーゼルエンジン車で活動中である。
ラリー
1980年代から1990年代初頭にかけて、プジョーはモータースポーツ部門であるプジョー・タルボ・スポールが中心となって活躍していた。当時のディレクターは、後にフェラーリF1チーム監督として辣腕を振るうジャン・トッドである。
WRCのトップが主にグループ4車両で争われていた1980年代初期、グループ会社のタルボのサンバ(プジョー・104ベースのFR駆動の小型ハッチバック)をグループ4規定のラリー仕様に仕立てた「タルボ・サンバ・ラリー」で参戦していた。
その後、プジョー・タルボ・スポールの手によって1984年のWRC、ツール・ド・コルスにて 205 T16(E1)がデビューし、初戦で2位を獲得。その後も強豪ひしめく群雄割拠のグループBの中でも、ランチア・ラリー037、アウディ・クワトロ、ランチア・デルタS4といった強敵に互角以上に打ち勝ち、数戦後には更に戦闘力を高めた改良型 205 T16 E2 を投入する磐石のシーズン運びを見せ、結果1985年と1986年の2年連続でドライバー(1985年:ティモ・サロネン、1986年:ユハ・カンクネン)とマニュファクチャラーズのダブルタイトルを獲得するに至った。
登場当時、覇を誇っていたフロントエンジン4WD車・アウディ・クワトロの牙城を崩し、ミッドシップ4WD車のWRCにおける優位性を確立した。のちに、同様のコンセプト及び駆動系などのレイアウトを、各メーカー毎の解釈に基づき製作されたランチア・デルタS4、MG・メトロ6R4、フォード・RS200などが続々と発表、実戦投入され、レイアウトはそのままにショートホイールベース化され、更に過激な進化を遂げたアウディ・スポーツ・クワトロ等と共に、グループB最終年となる1986年までラリー・コンペティションの歴史に残るパワー戦争を繰り広げた。
1987年以降のグループB消滅後は、205 T16(E2ベース)はパリ・ダカール・ラリーに活躍の場を移し、後継の405 T16と合わせると四連覇するという快挙を達成(1987年 - 1990年)。そのあまりの強さに「砂漠のライオン」として競合メーカーに怖れられ、のちにパリ・ダカを制する三菱自動車工業の挑戦をことごとく跳ね返した。
205は、全日本ラリー選手権に当時のインポーターであったARJ(オースチン・ローバー・ジャパン)のサポートにより参戦した。ライバルの通称・ハチロクと呼ばれるAE86型レビン / トレノと名バトルを繰り広げたのは余り知られていない。なお、同選手権に左ハンドル車として初めてエントリーしたマシンである。
その後、1990年代前半はプジョー・タルボ・スポールが活動の主軸をグループCカーやF1に移したため、205・306・106のグループA車両でのラリー活動を比較的小規模で行っていた。
1990年代後半からは、WRCやフランス・ラリー選手権に新設されたF2クラス(2000cc以下の2ボックスFF車による競技クラス)に主に306 キットカーで参戦。ここで好成績をあげたことから、1999年からのターボ付き4WD車のWRカーでの参戦につながった。フランス・ラリー選手権では同じPSAグループのシトロエン・クサラ キットカーやルノー・クリオ MAXI / メガーヌ MAXI等と激戦を繰り広げた。ちなみに、1600ccエンジンの106 キットカーも数戦ではあるがWRCに参戦している。
1999年、206WRCを引っさげて再び参戦したWRCでは、驚異的なターマックラリーでの強さを発揮し、2000年・2001年・2002年とマニュファクチャラーズタイトル三連覇を果たし、往時の実力を示した。その後、販売戦略からマシンを307CCをベースとしたWRカー・307WRCにスイッチした。307WRCは時折早さを見せるものの、ボディの大型化により時としてカスタマー・スペック車の206WRCの後塵を浴びるほど不振を極め、2005年シーズンを最後にワークスとしてのWRC撤退を表明した。ちなみに、2005年度のワークスマシンを元としたカスタマー・スペック車が、2006年プライベートチームからエントリーしていた。
現在は、307WRCのカスタマー・スペック車のメンテナンスと、207のS2000クラス参戦車両の開発を行っている。
耐久レース
1990年代前半にはグループCカーのプジョー・905(含905 EVO / 905 EVO2)でスポーツカー世界選手権 (SWC) やル・マン24時間レースに出場した。
スポーツカー世界選手権 (SWC) には1990年から参戦。1992年にチャンピオンを獲得している。ル・マン24時間レースにも、同じくグループCカテゴリの905でエントリー。1992年・1993年に連覇を果たしている。特に1993年のル・マンでは、マシンとして円熟した905が 1 - 2 - 3 フィニッシュを飾り表彰台を独占、翌年フェラーリへの移籍が決まっていたチームディレクター、ジャン・トッドの有終の美を華々しく飾った。1994年、スポーツカー世界選手権の消滅を受け、プロトタイプクラスで行われる耐久レースからは撤退した。
2007年より、近年耐久レース界で圧倒的な強さを誇るアウディ・R10 TDIに対抗すべく、ディーゼルエンジン搭載のプロトタイプレーシングカーである908 HDi FAPにてル・マン24時間レースへ再参戦を開始。ドライバーにはジャック・ビルヌーブを始めとする元F1ドライバーを多数起用しており、優勝を目指す姿勢を鮮明に打ち出している。しかし、速さはあるものの信頼性に問題を抱えており、2009年に初優勝するまでアウディに勝利を明け渡すこととなる。2011年に905から3世代目となる908がデビューした。
F1
F1には、1994年にマクラーレンにエンジン供給を行なう形で参入。以後1995年 - 1997年にはジョーダン、1998年 - 2000年にはプロストへエンジン供給を行ったが、結局一勝も挙げることなく、2000年を最後に撤退。その後F1エンジン開発部門はアジアテックに売却されたが、そのアジアテックも2002年シーズン終了とともに消滅した。プジョーにとってのF1レースへのエンジンメーカーとしての参戦は、苦く惨憺たるものであった。